1章. プロローグ

 少女の、少女による、少女のための、一夏の小さな戦争。


2章. 夏の始まりに

 全てが終わってしまった後においても、窮極のところ、どうしてこんなことになってしまったのか、何が幸いして何が災いしたのか、ぼくにはてんでわからないままだった。――だから、これから語ることにはきっと間違いもあるし、ずっと誤解もある。ほんとうならば、たぶん語るべき言葉すら持ち合わせては居ないのだろう。それでもぼくがこれを記すのは、ひとえに後世のためである。大袈裟に聞こえるかもしれないが、ぼくの後悔が、来年の夏においても捧げられるであろう哀れな生贄の助けになれば、と心からそう思うからである。


3章. 市営たまかずら飛行場

 8月10日、わたしは安物のボストンバッグと共に玉鬘の空港に立っていた。これについての理由は簡単だ。ゼミの真木柱まきばしら教授がわたしにそう命じたからだ。彼は常になく珍しく強権的な態度でわたしに接し、単位を人質にしてとある女性との泊まり掛けでの旅行を行うように命令――いや、まぁ形式的とはいえ拒否の余地はあったのだから、依頼――してきた。
 どう言い訳をしてみても全く正気の沙汰ではない。てんで見ず知らずの女性との3泊4日である。いくら互いに成人済みとはいえ、何か間違いが起きないとも限らないし、そもそもが楽しい旅行になるとは思えない。しかしそれは、教授の話と先輩らの噂を総合する限り我がゼミの、というか学部の? あるいは大学の? いや、もはやそれ以上の? 「伝統」であるらしい。
 あぁ、別に興味はないだろうけれども、わたしの名前は、 初音はつね 少女おとめ 。県立がわ 大学文学部の3回生、専門は――、ってもっと興味がないか。おそらく意味もない。それと、この可愛らしい名前についてはあまり言及しないで頂きたい。色々と複雑な、ややこしくこじれた事情があるのだ。そもそも何かこじらせていないと文学部なぞに来ないとさえ言えるだろう。
 そんな命令的依頼を受けて、むろん真木柱教授や先輩たちに対して完全な情報開示を求めたわたしだが、必死の〈説得〉むなしく彼らは頑として譲らず、助けになりそうな情報は一切寄越さなかった。代わりに、と言うべきか、いや持って回った言い方は止そう、この記録の趣旨を今一度思い出すべきだ。唯一手渡されたのは、「いんあいとりあつかい 便びんらん」と題された一冊の大学ノート、より厳密には何度も増設と製本とを繰り返され、電話帳くらいの分厚さに――もしも読者が電話帳を知らない世代であったのなら申し訳ない。とにかく分厚い物の喩えだと思考を停止させるか、思考を停止させてウェブ検索を行って欲しい――なっている大学ノートである。
 来夏の犠牲者に告げる。行を改めて、姿勢を正して告げるのだ。取扱便覧には隅から隅まで目を通しておくべきである。それを少なくとも三度繰り返すべきである。このノートに仕掛けられた魔術的仕掛けによって、便覧の有形的複製は非推奨である。規約により許された「追記」や「増設」以外に新たな付箋、インデックスその他の方法で便覧に加工を施すことは生命の危険を伴う。「何を馬鹿なことを」とお笑いになるだろうか、何も知らず、この警告を笑える者は極めて幸福だと断言する。
 まぁ詰まる所、わたしは事前に「不亜院愛夢の取扱便覧」に目を通さなかったのである。もちろん理由はある。なんとも形容し難い――おそらくは憐れみの――視線を向ける先輩から大学ノートを受け取ったあと、頭上にクエスチョンマークを沢山浮かべて下宿に帰ったわたしは、どうにもこの大学ノートに良い印象を抱くことが出来ず、むしろ古びた表紙と更紙のごわついた質感、そこから立ち昇る染み付いた濃い匂いにある種の不快感すら覚えて(1の正気度ポイントを失う)そのまま旅行用の鞄に一応仕舞い込んで終わっていたのである。
 というわけで、正確を期すのであれば、わたしは「不亜院愛夢の取扱便覧」入りのボストンバッグと共に玉鬘の空港に立っていた。そうしてわたしは、一切の予備知識無く、心構えを欠き、対抗手段を持たぬまま、彼女、不亜院愛夢との対面に臨むこととなったのであった。


4章. 不亜院愛夢

 ――玉鬘飛行場に立っていた、とずいぶん口にしているが、なにもわたしはただ立っていたわけではない。途方に暮れていたというべきである。説明の必要はないと思うが、8月10日は真夏である。外気温は摂氏40度を超えていると盛んな報道が加熱している。一方で、玉鬘空港は数時間前から降り始めた雪に閉ざされていた。地方空港の常として、山間の不便な場所に位置するとはいえ、これが異常事態であることは明らかである。本日朝の出発便、到着便は全て遅延が決定され、空港職員は慌ただしく季節外れの除雪車に燃料を注いで滑走路を往復している。わたしが予約した午前6時50分の便も、スタッフたちの会話から漏れ聞こえてきたところによると、正午に飛べればいいところだろうという。
 それにしても、寒い。雪が降るということは気温も低いということで、突然の事態に混乱し、まだ冷房がついている空港内は凍てつく寒さだった。スカートから露出した両脚をさするが、焼け石に水、といったところである。
 というか、余裕を持って早めに来るようにしておいて良かったと思う。空港への経路は雪によって半ば封鎖されつつある。いくら乗り気ではないとはいえ、ひとりゲストを手持ち無沙汰のまま待たせることは良くないだろうから。あぁ、ちなみにわたしは愛車にバッグと、帰り道の運転を気分良く請け負ってくれた後輩を乗せ、降雪の中をここまでやってきた。玉鬘近辺にはホテルもなく、申し訳程度の公共交通機関しか存在しないというのに、なぜこんな早朝の便が設定されているのかは大いなる謎である。必然、わたしは自家用車でのアクセスを余儀なくされていた。
 しかしこの大雪、新免の後輩ちゃんに帰りを任せて本当に良かったのだろうか……。この季節だ、当然冬用タイヤを装着しているはずもない。可愛い後輩の、いやそれ以上に愛しいマイカーの無事が気にかかるところであった。こんなことになるのなら、真木柱めから渡された出所不明の旅行資金を使ってでも空港の駐車スペースを借りるべきだったのではないか。そんなモヤモヤとした気持ちを抱えたまま、何を見るともなく雪に埋もれた滑走路を眺めていると、不意に背後から声をかけられた。
「失礼ですが、初音少女さんかしら?」
 慌てて振り返った。まさか心の底では人命よりも車の無事を心配していたと知られたら人間性を疑われてしまうだろうから。いや、そんなことはどうだっていい、少し混乱していたようだ。
「え、えぇ、そうです。初音少女です。貴女は……、もしかして……」
「まぁ! 無事にお会いできて良かったですわ! 初めまして。わたくしは不亜院愛夢、ですわ。真木柱先生からお話しは聞いているかしら? どうぞお見知りおきを」ついコミュニケーションを上手くとれない奴みたいな返事になってしまったが、彼女は気にした様子もなくそう続けて快活に笑った。
 マッキーからはもちろんなにも聞かされてはいないのだが、それはこの際良いだろう。脇に控えているぴかぴかの新品みたいな真っ赤なグローブ・トロッターも、まぁ良い。一般的には好ましいとさえ言えるだろう。いけないのは服装だ。ロングのブーツ? 真夏に? アリか無しかで言えば無しだが、そういう趣味もあるだろうし、百歩譲ってこれは良しとしよう。けれどトレンチコート? 何度でも言うが今は8月だぞ、有り得ない。既に雪で閉ざされているひんやり冷え込んだこの飛行場の中ではむしろこれ以上ないくらいに適切だろうが、降り出したのはほんの少し前のことだ。彼女がどこからやってきたのかは知らないが、そんなのまるで かのような準備の良さじゃないか!
 上に記したことは、実はこの時は考えてはいなかった。後から気付いたことをさもその時にきちんと気付いていたかのように書いてみせただけである。ではこの時わたしは一体何を考え、全体何をしていたのか、簡単である。見習いとはいえ文学の徒、その持ちうる全ての語彙を総動員して彼女の美しさ、可憐さ、可愛らしさ、愛らしさ、そういった魅力の限りを描写し、表現し、彼女にぶつけていたのだ。じろじろと〈目星〉して下手に観察するような不躾な視線を送ってしまったのが間違いだった。とはいえそれは不完全に終わる。無論わたしのボキャブラリーの貧困さにも問題があるが、APP19の容姿を十全に讃える言葉は日本語には無かった。否、いかなる言語においても不可能だと言おう。たとえゲーテをつれてきたってきっとぜったいまちがいなくやくぶそく(ごよう)にきまっている(1の正気度ポイントを失う)!!!
 ハッと我に返ると、彼女はにこにこ微笑みながら、「あらあら、ありがとうございます。随分と情熱的な方ですのね」とか言っていた。とくに照れているような様子もない。きっと同じようなことをあちこちで言われ慣れているのだろうなと思った。そんな彼女が続けて「でも少女ちゃんもとっても可愛らしいですわよ」なんて言ってきたときには、醜態を晒してしまったことに気付いたとき以上に顔を赤くさせなければならなかった(1の正気度ポイントを失う)。
「と、ところでどうしてわたしが初音だと? あっ、あれでしょうか、教授から写真を受け取っていたとか? それとも片っ端から声を掛けていったとかでしょうか? ……もしそうだったら済みません。こちらからお探しするべきでした」とにかく話題を変えよう。話題を変えようとしていることがあからさまだったとしても変えてしまおう。この話題が進めばそれはわたしにとってあまり望ましくない方向へと行ってしまうだろうから。
「いいえ。写真は頂いていませんし、声を掛けさせて頂いたのも少女ちゃんが一人目ですわ」いたずらっぽい表情で彼女は答えた。
「ふふ、簡単なことでしてよ。大学生の方で、なおかつお一人で黄昏ていらっしゃったのは少女ちゃんだけでしたから」そう言われてさして広くもない空港ロビーを見渡すと、確かにカウンターで怒鳴り散らしているサラリーマン風の男性や、早くも諦めたのかソファで寝ている老人、困惑した表情の学生っぽいグループはいるものの、ぼっちの大学生――つまり彼女(不亜院愛夢)の同行者たりえる人物――はわたしだけのようだった。言われてみれば当たり前のことだったが、「探偵かよ――」と思わずにはいられなかった。というか、「黄昏ていた」とか言わないでほしい。
「「探偵かしら?」とお思いになられたかしら? うふふ」あくまで彼女は楽しそうだ。いや、「かしら?」とは思っていないけれども。
「まだまだ飛行機は飛ばないようですし、よろしければそこに座ってもっとお話ししましょう? わたくし、飲み物を買って来ますわね」いえ、それならわたしが――、と言ったときには彼女はもうスターバック氏が経営するコーヒー店へと向かって歩き出していた。……ずいぶんとまあ行動力があるタイプのようだ。
 ……ふぅ、これだけのやり取りでもなんだかどっと疲れたぞ。わたしには疲れているヒマなんてないはずなのに……。なんたって単位がダース単位で掛かっているんだ。今まで「不可」を喰らった連中はそう多くはないみたいだから、彼女の採点はかなり甘いらしい。とはいえ、油断は禁物だろう。
 しかしあまりにも自然に呼ばれたからつい聞き流してしまっていたが、「少女ちゃん」ときたか。その呼ばれ方は好きじゃないからできれば変えてほしいんだけれど……、聞いてくれそうにはないなぁ……。
 冷えた空気がまたもや吹き込んできて、わたしは少しだけ身を震わせた。


5章. Status : Delay

 モデルみたいな歩き方で遠ざかっていく不亜院愛夢の背中を見送りながら、考える。彼女は一体何者なのだろうかと。多分年上なのは間違いないだろうが、大学生(院生も含む)には見えない。かといって何か仕事をしているような雰囲気もない。あの芝居がかった演出過剰な口調に引きずられ過ぎの気もするが、もしかして本当にお嬢様というやつなのだろうか。少し古い言い方をするのであれば、「良家の令嬢」といったところか。まぁまぁいい線いっているような感じはする。暇を持て余したお嬢様が何かの伝手かコネを頼りに毎年の旅行を企画させている。……いやぁ、どうだろうか。普通に考えればありそうにないが、彼女ならば、といった気配も感じる。付き合わされる方はたまったものではないだろう。今年について言えばそのたまらない同伴者はわたし、ということになるのだけれど。あるいはあの「取扱便覧」とやらはお見合いにおける釣書のようなもので、きちんと目を通しておけば彼女の写真やプロフィールが載っていたりしたのだろうか。――いや、それもないか。あれはそんな感じの冊子では無かったし。
「お待たせさせてしまったかしら?」顔を上げるとそこにはトレーを手にした彼女の姿があって、急に物思いから引き戻されたことにわたしはまたもや慌ててしまった。ぼーっとしている奴だと思われていないか不安である。そんなことは無かったと伝えると、「それは良かったですわ」と彼女はにっこりと笑顔を見せた。
「ごめんなさい、少女ちゃんの好みを聞くのを忘れてしまって。どちらかお好きな方をお選びになって」隣に腰掛けた彼女に言われて、トレーを見る。透明度の高いカップに入ったシンプルなアイスコーヒーと……、なんだこれは……。絶句した。滅茶苦茶カスタマイズされていることは見た目からも明らかだ。山盛りになったエキストラホイップにチョコレートチップ、夏っぽい色合いのソース、たぶん中に溶けたシロップなんかも変更されているのだろう、ドリンクIDの欄はマジックによる記入で真っ黒になっている……。コーヒーを頼むだけにしては時間が掛かっているなと思っていたらこんなことを……。今まではみんな面白がって言っているだけかと思っていた。本当に実行する人がいるなんて……(1の正気度ポイントを失う)。わたしは年頃の少女ではないが、つい、「太ったりしないのかなぁ」などと年頃の少女みたいなことを思ってしまった。
「わたしはこっちの、えっと、普通な感じの方で……。あ、済みません、お金を払いますね」なんだか謝ってばかりだなと思いながら、そう言いながら財布に手を伸ばした。
「ディレイで頂いたミールクーポンを交換してきただけですから、お代は結構ですわよ? ラッキーでしたわね」彼女は楽しそうに笑う。
 わたしは意外とちゃっかりしているなと感心していた。お嬢様説は間違いだったか? いや、金持ちほどケチとはよく言うし、まだ分からないか……。
 しばし無言でアイスコーヒーに向き合う。空港側も諦めて冷房を止めて暖房を稼働させ始めたのか、ロビーは少し暖かくなってきていた。飲み物は冷たいほうが適切だろう。――アスファルトも溶けそうな真夏に、大雪の降る空港で、暖房に暖められつつ、アイスコーヒーを飲む。始まったばかりの夏休み旅行は、既にわたしの予想を裏切り続け、手に余るようになりつつあるように思われた。苦い。甘い物は別に苦手ではないが、あれを飲む勇気はわたしにはなかった。そもそもあれは彼女の趣味100%で出来たドリンクになっているのだろうし。
「ふぅ……」右隣の彼女がアンニュイなため息を吐いた。
「……どうされたんですか? 何かありましたか?」良くない癖なのかもしれないが、つい気になってそう聞いてしまっていた。
「そうですわね、飛行機は久しぶりですから、少し不安になってしまいまして」
 飛行機が久しぶり? 十数年前ならいざ知らず、このご時世、格安な航空券を提供している飛行機会社はたくさんある。わたしもよく利用しているから分かるが、荷物の様に扱われることを除けばそれはとても便利なはずだ。旅慣れていそうな見た目に反して、飛行機に乗らないというのは一体――? もしかして高所恐怖症というやつだろうか。
「いえ、高い所が怖いわけではありませんわ。ただ、飛行機は、ほら、墜ちるでしょう?」
 おちる? あぁ、「墜ちる」、か。意外な答えだったから変換が追いつかなかった。
 どうだろうか、確かに飛行機が墜落することは無いとは言い切れないが、飛行機事故に遭う確率は自動車のそれよりも大幅に低いと聞く。だからわたしは、「大丈夫ですよ、そんなこと滅多に起こることではないですから」とそんな彼女の言い分に人間らしさと少女のような可愛らしさすら感じてそう言ったのだった。
「?」いや、そんな何を言っているんだコイツみたいな顔をされても困るのだが……。
「わたくし、今年は飛行機だと聞いてとてもとても楽しみにしていましたのに。」数瞬の後、彼女は呆れた表情をしていた。
「少女ちゃんが一体どんな対策の下わたくしを飛行機に乗せて下さるのか心から興味がありましたのに。どうやら単なる予習不足だったみたいですわね。あまり感心しませんわよ?」
 なにか減点を受けた気がした。けれど、――予習。その言葉にはピンときた。「不亜院愛夢の取扱便覧」だ。まさかあれに何か「飛行機に乗せてはいけない」みたいなことが書かれているのだろうか? 言いたいことを言った彼女の興味はすぐにドリンクに戻ったようで、バレバレだとしても一応後ろを向いてボストンバッグから古びたパンフレットを取り出した。
 とはいえこの分厚さだ。知りたいことがすぐに見つかるとは限らないのでは……。という心配は杞憂だった。わたしが〈幸運〉だったのもあるが、そもそも始めの方のページに、他よりも気持ち大きめの文字で、ご丁寧に傍点まで振って記載されていたからだ。その内容はやはり夢想外のものだったが、きっとコレに違いない。
 曰く、

 
 ……まじか。タワー・オブ・テラーに乗れないじゃないか。でもまぁホーンテッドマンションには乗れるから良いか。いや、そんな問題でもない。少なくとも今日チケットを取っている飛行機が定員8名以上の乗り物に含まれることは間違いないのだから。
 仮にこれが本当だとするならば、さっきは安心できる理由として述べた「飛行機であること」が逆にデメリットに転じたように思われた。車であれば、自損事故などの軽微なものも事故と呼ぶだろうが、飛行機の場合、そう表現するのは墜落や不時着のケースが主だろうから。
「該当箇所を見つけることができたようですわね。けれど安心なさい、やむなく飛行機に乗ったときに起こった事故が空中分解だったケースは経験上まだ一度しかありませんわ」と、全く安心できない情報が背中に突き刺さる。
「その……、本当に、本当に何か起こるんですか? 悪い冗談とかではなくて?」
「そうですわね、少女ちゃんが十全な準備をして下さっていればあるいは、とは思いますが、そうでないのでしたら……」振り返るとなんとなくドヤ顔だった彼女に問いかけると、事もなげにそう言い放って肩を竦めてみせた。
「ですが雪の影響で到着できていない方もたくさんいらっしゃるようですから、きっと被害はいくぶんかマシなはずですわ」またもやドヤ顔に戻った彼女が言う。それは――確かにそうなのだろうが、本当に何かあるとして、巻き込まれる少数の不運な乗客たちの運命はどうなるというのだろう? それよりもわたしはどうなるのだろう? 22年間生きてきて初めて飛行機事故というものを経験することになるのだろうか? そんな彼女の言は余りにも非人間的に感じられて、ここでもわたしは、やはり結果としては藪蛇でしかなかったことを尋ねてしまったのだ。
「不亜院……さん、貴女は一体……?」


6章. Status : New Gate

「不亜院……さん、貴女は一体……?」思わずそう呟いて、すぐにしまったと思った。グイグイ来る彼女に釣られてもう仲良くなったつもりでいたのか。また出会って数時間しか経っていないというのにこの物言いはあまりにも非礼だろう。
「では、これはクイズです♪ 少女ちゃんはどう思いますか? わたくしはの正体は何だと?」三度謝ろうかと思ったが、むしろ彼女はクスリと笑ってそう問いかけてきた。俄然楽しくなってきたとでもいうように。付け加えて、「それと、わたくしのことは愛夢でよろしいですわよ」とも。
「………………」
「ですわね、適当に答えられても不愉快なだけですわ。今は沈黙が正解です」本当に何も言えなくて、けれど今はそれが正しかったようだ。
「旅の終わりにでも、もう一度答え合わせをしましょうか。とっても楽しみですわ。もっとも、わたくしとしては、あなたがわたくしの正体が気になるように、あなたの正体が気になってしかたない。というのが今の、より率直な気持ちですけれど。――そうではなくって? 少女くん?」
「……!? ……!!」何を言われたのかすぐには理解できなかった。だが、それは……(2の正気度ポイントを失う)。
「い、いやだなぁ。愛夢……さん、突然どうしたんですか」大丈夫、大丈夫だ、びっくりしたがまだそうと決まったわけではない。ほら、何かの言い間違いかも知れないし。
「すぐには気付きませんでしたわ。気付いたときには驚きましたわ。本来より高い声が出るように声帯を縮めるためかしら、どうしても姿勢に違和感がありましたの」
 (1の正気度ポイントを失う)
「それに、もちろん対策されているのでしょうけれど、アンドロステノンの分泌が女性にしては多いですわ。これも最初は勘違いかしらと思いましたわ」
 (1の正気度ポイントを失う)
「決め手は先程背中を見せて頂いたときの肋骨の広がり方ですわね。個人的にはもう少しゆったりとした服を選ぶことをお勧めいたしますわ」
 大きなお世話だ。これが可愛く見える限界ギリギリのフィット感なんだよ!(5の正気度ポイントを失う) なんてことを口にする余裕もなく、わたし――いや、ぼくは俯いて唸り声を上げるのがせいいっぱいだった。
「わたくしにも覚えがないわけではありませんわ。どういう理由でそうなっているにせよ、大学3年生、可愛さの賞味期限はそろそろ限界でしょう? であれば……」
 彼女がつらつらと何か述べているが、ほとんど聞こえてはいなかった。この事実を知っている者の数は両手で足りる。「ぼく」にとっても、「わたし」にとっても、これはけして知られてはいけない類の秘密だった。そして突然の〈アイデア〉がぼくにもたらしたのだ、目眩がしてゆらりと幽霊のように顔をあげてしまったぼくに向かう、くすくす笑う彼女の表情の中に、どうしようもない性悪さと悪辣の存在を。
 (短期の一時的狂気:殺人癖あるいは自殺癖)

 ちょうどそのとき、空港のアナウンスが運行再開を告げた。優先的に除雪を行った滑走路10の使用が可能になり、ぼくたちの飛行機から順番に離陸する。ついでに搭乗ゲートも変更されたようだ。その出来過ぎたタイミングに、彼女は立ち上がり、「さあ、行きますわよ!」とぼくに手を差し出した。
 というわけで、彼女の夏休みは、ぼくにとっては彼女を殺す旅へと変更された。この さつ がどれほど続くのか、今はまだ不確かだけれど、――ぼくはこの夏を、きっと忘れない。


7章. 夏の終わりに

 結局のところ、飛行機は行きと帰りで併せて3回墜落した。不時着した無人島「常夏」――まぁ「ヒト」はいなかったのだから無人島で良いだろう――でのサバイバル生活。島に設けられた海の家「胡蝶」での夢のようなアルバイト三昧。視界――、いや世界いっぱいに広がった八尺花火「篝火」が放った原初の光。廃棄天体観測所「蛍」でのめくるめく無限の星空観察会。
 そんなこんなを乗り越えるうちに、ぼくの狂気はどうしても達成することが叶わないものとなってしまったのだが、不亜院愛夢からは「優」を貰い、教授との約束通り120単位を獲得して、文学研究科後期課程までの道筋と、博士論文審査及び最終試験合格の確約を得たのであった。
 ひとまず、主には紙面の都合から、今はここで筆を置くこととしたい。そもそもが、ぼくは読む方専門であって、書くのは好きでも、ましてや得意でもないのだから。それでは諸君、よい夏休みを。